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津島のつぶやき

美しい響き優しさに包まれて

2012.1.25

1月23日、今注目のピアニスト=辻井伸行さんのコンサートに行きました。
満員の観客からの温かい拍手に迎えられて、辻井さんがステージへ登場。椅子の座り具合を念入りに調整したのち、1曲目の『きらきら星変奏曲』。緊張があったのか、調子そのものが良くなかったのか、この曲と次の『ピアノソナタ11番』、共にモーツアルトの2作品はやや期待外れでした。滑らかさに欠け、軽やかさを感じることが出来ませんでした。
休憩ののちのベートーベンの作品『ピアノソナタ第17番(テンペスト)』は、息を吹き返したような演奏で、ピアノの響き自体も素晴らしいものでした。そしてラストの『ピアノソナ第21番(ワルトシュタイン)』は見事な演奏で、特に2楽章・3楽章では背筋が震えました。私のタイミングがずれたため、“ブラボー”の声を上げることはありませんでしたが、スタンディング・オベーションに値する演奏でした。
割れんばかりの拍手の後、アンコール曲が2曲(曲目不明)演奏されましたが、本当に楽しそうに演奏しているのが手に取るように分りました。そののち、何とMCが入りました。「満員のみなさんの大きな拍手が嬉しくて、アンコール3曲目をやります…」と。昨年のカーネギーホールデビューのために作ったご自身の作品でした。このあともまた、MC。そしてラストになったのは、「3.11のあと、自分に出来ることは音楽しかないのだ」とのお気持で作られた「それでも、生きていく」。辻井さんの祈りの心を感じるような優しい旋律で、とても暖かい響きがホールに広がりました。
大好きなベートーベンの作品を素晴らしい演奏で聴くことができ、アンコールでは本当に楽しそうな表情を見せていただき、MCや震災の復興を心から願っている作品を聴かせていただき、心安らかになれた時間でした。解決していかなければならない課題が山積している現実ですが、この心を大切に、真正面から取り組んでいかなければならないのだと思います。
辻井さんは、まだまだお若い演奏家ですが、あらためていつまでも聴き続けていきたいと思っています。そして、世界一流のピアニストに成長していって欲しいと心から願っています。

津島のつぶやき

音楽の力

2011.12.1

今日から12月=師走です。慌ただしい日々が続きます。

戦後、日本がまだまだ貧しかった1940年代後半の年末に、日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)が、ベートーベンの交響曲第九番の演奏会を開いて以来、日本では「第九」のコンサートが、すっかり年末の風物詩として定着してしまいました。
「第九」は私が最も好きな楽曲です。コンサートでも何度も聴いてきましたが、第4楽章を涙なしで聴いたことは一度もありません。ベートーベンが22才の時、シラーの詩「歓喜に寄す」に感動し、30年以上も構想をあたためたのちに作曲されたこの交響曲に込めた“平和”への願いを、強く感じないではいられません。
CDを聴いていても同様のことがあります。第2次大戦後初めて開催されたバイロイト音楽祭(1951年)での、フルトベングラー指揮の演奏を聴いていると感動で涙が滲みます。そして、この演奏を聴くときは、必ずソファーの上に正座してしまいます。この「バイロイトの第九」とは、オケも指揮者も異なりますが、1990年10月の「東西ドイツ統一記念演奏会」でも「第九」が演奏されました。この時は、東西ドイツ・フランス・イギリス・アメリカ・旧ソ連からの寄せ集め(パリ管、ニューヨークフィルなどそれぞれの国では一流のオケ)のオーケストラを、レナード・バーンスタインが指揮しましたが、この演奏も背筋が震えて止まりません。
これはフルトベングラーの言葉ですが、「感動とは観客と演奏者との間に生まれるもの」という言葉どおりの演奏だったのだろうと思っています。すなわち、前者は第2次世界大戦が終わって初めてのバイロイト音楽祭が開催された時の喜びが、後者は東西ドイツが統一され、冷戦が終結した状況下での喜びが演奏を通して伝わってきます。いずれも、演奏者と観客席とによって生まれた感動が「音」として表現され、人々に前に進んでいく力を与えたのだろうと思います。

今年、桑田佳祐や福山雅治など多くのミュージシャンが行なった「震災復興ライブ」は、東北の人たちだけでなく、私たちにも大きな力や勇気を与えてくれました。

今月は、「第九」のCDや復興ライブのビデオを出来る限り視聴するつもりです。そしてその音楽の力で、心元気に、心豊かに新しい年を迎え、子どもたちをもっともっと元気にしていきたいと思っています。


津島のつぶやき

震災に思う

2011.4.14

春の集中学習が始まるちょうど10日前、マグニチュード9.0という巨大地震と、それにともなう10メートルを超える大津波が発生し、多くの方の命が奪われ、1か月が過ぎた現在も行方不明の方の数が1万数千名にものぼっている。また、さらにその津波によって安全だったはずの原子力発電所が破壊され、未だ危機的状況を脱し得ていない。私たち日本人が、この危機にどう対応し、日常を取り戻していくのかが問われている。そして、生まれてから現在まで培ってきた価値観や死生観すら変えることを余儀なくされているような気がしている。
この集中学習の期間中、子どもたちの前で、開講式やHRなど、折に触れてこの度の震災の話をしてきた。その結果、まとめの作文に、「目標に向かって、『我慢』することが、被災地の方々に気持ちを伝えることだ」とか、「何もなかったように学べる事を、その方々に感謝したい」といった文もみられた。こうした子どもたちの思いを無にしないためにも、大人の一人として、立ち止まらないで歩を前に進めなければならないのだと強く思う。
原発については、日本の知恵と世界の知恵とを結集して、一日も早く「安全宣言」が出来る状態を作れることを願うしかない。このことについて、様々な責任論が飛び交っているが、今は誰しもが問題解決に全力で立ち向かう時だ。問題解決ののち、責任を問うことも必要だろう。そして、これからのエネルギー開発についても、日本の科学者たちが横断的な議論を尽くし知恵を結集して、火力や核に頼らない、人にも地球にも安全なエネルギー供給を近い将来実現しなければならない。責任の追及は今ではない。
被災地を目の当たりにした人たちの口からは、まず、「言葉を失った」ということばが発せられる。4月3日付の天声人語には、「すべての言葉は枯れ葉一枚の意味も持たないかのようであった」と、表現されていた。そんな状況下にある被災地自体の物理的復興や、被災地の方々を中心にした日本人全体の精神的な回復について、日本だけでなく世界中からの応援が送られている。しかし、復興への道筋は、支援物資や経済的なものだけで果たすことができないことは、自明の理である。そのためには、政治家や一部の識者に委ねてしまうことなく、私たち日本人個々が、今生きていること、そしてこれから生きていくことの意味を自ら問い直し、まずは元気に明日に向かうことだと思っている。そしてその上で、「日常」を取り戻すためには新しい価値観の構築が必要不可欠なのだと思う。
第2次大戦後の日本は、廃墟のような状態から驚異的な復興を遂げてきた。その間の価値機軸は「物質的に豊かになること」だった。そして、その一つのモデルはアメリカであった。そうして経済復興を成し遂げた日本は、10年ほど前までアジア諸国から目標視されてきた存在だった。しかし今、この状況下で日本が目指すべきモデルは存在しない。また、私たち日本人が新しく持つべき価値機軸は、「もの」ではなく、見えることのない精神的なものである可能性が高い。だからこそ今、私たち日本人個々が、生きることの意味を問い直さなければならないのだと考えている。

津島のつぶやき

東日本大震災

2011.3.16

3月11日、初めてテレビに流れる被災地の映像を見た時は、「まるで映画のよう」と、他人事の気分だったことは否定できない。しかし自宅に帰って、津波に流される家や車、そして暗闇の中で町全体が燃え上がっている様子を見て他人事ではなくなり、大学時代の友人に電話を入れたり、メールを送った。その電話はまったく通じず、東京の友人たちへのメールですら送信してから1時間以上もかかっていた。それからまる2日後の13日までに、やっとみんなが無事にいることが判明した。最も心配していた福島の後輩と、石巻の知人も、無事であるとの確認が取れた。そして石巻の知人からは、自宅や事務所が壊滅的な状態になったことだけでなく、「廃墟のような街」と、被災地の様子が知らされた。

テレビは一日中その壮絶な被害の様子を伝えている。その映像を見ていて何度か涙が出てしまった。言葉にならないほど凄まじい、みんなで築いてきたものがボロボロにされてしまう光景に涙をおさえられなくなったのである。昨日(3月15日)の時点で、推定の数ではあるが、死者と行方不明の人の合計は1万人を越えた。亡くなった人の数は日ごとに増え、どんな数になるのか予測すらできない。たった数分でこれほどもの命が奪われてしまった事実をまだ受け止めきれないでいる。亡くなった方々は、命が終わってしまうことが「無念」と感じる時間さえなかったのではないだろうか。
また、避難している人たちは50万人を越え、命を奪われることはなかったにせよ、真冬に戻ったような寒さや空腹、恐怖、あるいはこれからへの大きな不安と闘っている。この状態に拍車をかけているのが福島県にある原子力発電所だ。現在のところ、4基の原発が水素爆発や炎上を繰返し、「安全」のめどが立っていないどころか、非常に危機的な状況が指摘されている。そして、避難指示が後手に回っているだけでなく、電力不足との理由で実施されている「輪番計画停電」が迷走状態のまま実施され、混乱を拡大させている。この原発については、安全神話を前面に掲げた人工物であるだけに腹立たしい思いもあるが、今は世界の知恵を結集して大事に至らないよう対策を講じ、放射能による直接的な被害者が出ないことを願うばかりだ。こうした一連の報道映像の中で、被災し避難している方々が、みなさん冷静に、穏やかに行動されていることは驚きでもあり、また、平穏な生活を送ることが出来ている中での自身の行動を恥じる思いでもある。
しかし、救われる思いがし、暖かい気持ちになれる報道も少なくない。一つは、コンビニにお菓子を買いに行った子が、レジ横の義援金の募金箱に持っていたお金を入れ、買うつもりだったお菓子は棚に戻したあと黙って店を出たそうだ。そして、それを追いかけて行った店の人は声を震わせて、「ありがとう」と言葉をかけたという報道だ。
また、海外からも支援の輪が広がっているが、世界の最貧国の一つで、内戦状態にあるアフガニスタンからも義援金が届いていることだ。5万ドル、日本円にして400万円である。成人男子の日給が僅か2ドルしかない国からの大変重みのある大きな支援である。同じ人間として、日本の人たちを放っておけないとの暖かい言葉を字幕で見た。現在も地球上では様々な対立があり、戦争もなくなってはいない。しかしその一方で、人はこんなにも暖かい心を持っているのだ。

この大災害の中、日本中で支援の輪が、支援の心が広がっている。身近なところでも、ある飲食店を営んでいる若い経営者から、「お客様から頂いて、今まで貯めていたチップや従業員の積み立てた旅行代を送らせていただきました。そして、あるメニューの売り上げを全額義援金にしたいと思っています」との素晴らしいメールをもらった。謙虚で、素直な言葉でそう綴られていた。頭が下がるとともに感動した。
昔から天災の少ない平和な岡山に生きていて、何事もなかったように日常を享受している私たちに何が出来るのだろうと、このメールをもらってさらに自問自答した。とりあえず、義援金は送らせていただいた。しかし、直接的な支援は何もできない。ただ、心を一つにして、一人でも多くの人の命が救われることを祈り、被災した人々が一日でも早く復興し、「日常」取り戻していけることを願うだけである。また、これを機会に、思いやりや支え合うことを学び、私たち日本人が、誇りを持って「私たちは、物理的にも、気持ちの上でも、助け合い、支え合い、その上で世界中の人から援助されて『日常』を取り戻せた」と言える状況が作れればと強く願っている。そして、微力ではあってもそうした状況を作っていくための一助になりたい。

津島のつぶやき

元気になれない日本 元気を出そうよ日本

7月18日に梅雨明けしてから、最高気温は連日35℃を越え、最低気温も25℃を下回ることなどほとんどない日々が、つい1週間前まで続いた。猛暑日も熱帯夜も日本各地で新記録となった。長く暑い夏だった。9月初旬には、朝はまだ蝉が元気に鳴き、夜は鈴虫やコオロギがまだ上手ではない羽音を立てているといった日が何日か続いた。こんなことはかつてなかったような気がする。

そんな暑さがおさまってから1週間経った今日、およそ3ヶ月ぶりに後楽園の外周を一周して、岡山城の東側を県庁通りまで歩いた。暑い夏が終わったばかりであるが、それでも何本かある銀杏の葉は色づき始めたように感じられた。駐車場はほぼ満車で、地元岡山ナンバーに混じって、大阪、神戸、香川など近隣の圏外ナンバーも多数見受けられ、遠くは横浜や宮城ナンバーの車もあった。もう秋の観光シーズンである。「旅は精神を若返らせる泉」とは、童話作家アンデルセンの言葉であるが、老夫婦や親子連れ、あるいはまだ若いカップルは、そうした精神の若返りを享受していたのであろうか。その人たちの楽しそうな笑顔に混じって、昼休み中のウォーキングと思われる人たちには険しい顔つきが少なくなかった。非日常=旅では明るく笑顔で振る舞うことができても、日常では多くの人々がそういう表情にならざるを得ない現在なのだろうか。歩きながら、そんなことを自分自身の現状に照らしながら考えた。

昨年秋、多くの日本の人たちにとって「待望」とも言える政権交代が実現した。しかし、鳩山内閣は「命を守りたい」などと、ごく当たり前のことを並べ立てた施政方針演説で幕を開け、自らの方針無き言質を重ねたことによって僅か9ヶ月で辞任を余儀なくされた。代わって民主党代表=首相となった菅直人も、この3ヶ月間、まるでヴィジョンなど持ち合わせないまま、マイナス思考の場当たり的発言を繰り返しているに過ぎない。自身の主張である「最小不幸社会」は明らかにマイナス発想であり、一国のリーダーとしての方針としては評価などできるものではない。いかに軽い言葉であっても、せめて「最大幸福」と、なぜ表現できないのだろう。また、「雇用、雇用」と叫ぶだけで、実行力の乏しい経済政策や、この2週間の中国との問題では、検察に責任を負わせる形で結論を急いだ。十分な状況分析の上で、事態の影響を熟慮して判断したとは言い難い外交の状況である。

一国のリーダーとは、20年後あるいは30年後、せめて10年後の日本の形と、向かうべき方向性を示さなくてはならないはずである。その上で例えば普天間基地の移設についても、やむを得ず当面合衆国との関係の悪化があるとしても、それを国民に理解できる形で方針を示し、基地の撤廃に向けて動き出すのであれば、一時的には日本全体に沖縄の苦しみを負担させることになったとしても私たちは受け入れることができるのではないか。経済の立て直しについても同じである。800兆円もの国の借金をいつまでにゼロにし、そのために何が必要なのかを示すことができれば、ある時は増税も受け入れることができなくないはずである。それが特にはバブル後、対症療法的に目の前の問題解決に「借金すること」を重ねてきた挙句が現在なのである。そして現政権は、対症療法的な手立てさえ打ち出せないでいる。

そんな国に暮らしている私たち日本人。元気に笑顔で生活していくのは難しいことなのかも知れない。このことは、大人に限ったことでなく、子どもたちも同様の状態に思えてならない。すなわち、余りにも疲れた表情が多いのだ。しかし、だからといって政治家や経済状況の所為にして諦めてしまってはならない。私たち個々が、幸せに、そして笑顔で暮らしていくことへの希求を止めれば、ますます状況は悪化するだけである。

マザー・テレサがノーベル平和賞を受賞した時の言葉に学びたい。受賞が決まったのち、報道陣から「私たちは平和のために何をしたらいいでしょう?」と尋ねられたマザー・テレサは、微笑みながら「家に帰って、家族に笑顔で優しい言葉をかけてください」と答えたそうだ。簡単なことではないが、すべてのことは、人と人との有り様、すなわち目の前にいる人を大切にすることなしには始まらないということだ。あらためて、日々の生活でその言葉を大切にしていきたいし、何よりも、子どもたちの笑顔を引き出していくことに力を尽くさねばならないと思う。子どもたちにとって、E・Iはそんな「場」なのだから・・・。

津島のつぶやき

ー情報時代に求められる力

三週間前の11月5日、MLBのワールドシリーズで9年ぶりにヤンキースが優勝し、松井がMVPに輝いた。松井が四番の座を捨ててアメリカに渡ったのは7年前のことである。それから現在までの間、手首の骨折、二度の膝の手術など決して順調に来たわけではなかった。「ワールドチャンピオンになりたい」一心でアメリカに行った彼にとって、今年まで一度もチャンピオンになれない状態も含めて無念な思いが続いたことは容易に察することができる。優勝を決めた第6戦の松井の4打数3安打6打点という特筆に価する大活躍で、チャンピオンとMVPを手にしたのだ。この情報を知った時、大喜びした。その夜のその模様を伝えるテレビニュースは、チャンネルを問わずほとんど見た。喜びを抑えられなかった。
次の日の朝日新聞朝刊の天声人語は、その松井のMVP獲得を伝えるものであった。その文はこう締めくくってあった。

「くしゃくしゃの相好で大男たちと抱き合う姿に、そうか、7年分の笑顔なんだと納得した。自分を裏切るな、迷った時は挑戦せよ、倒れるなら前に。いくつものエールを発する、いい顔だった。」

テレビの映像からは伝わって来なかった大きな感動がこみ上げてきた。あらためて言葉の持つ力を感じないわけにはいかなかった。辞書的な意味を持つ言葉がベースとなり、その場面、その文、その時の状況などの中で使い分けることによって、初めて言葉は説得力を持ち、人の心に感動を与え、普遍性を持つものになる。そうした言葉の蓄積によって、人は知識を蓄えさらに経験を付加することで知恵を得てきたのである。

「知識の中で失われた知恵はどこにあるのか? 情報の中に失われた知識はどこになるのか?」
ノーベル文学賞を受賞したイギリスの作家、トーマス・エリオットの言葉である。1934年に出版された本の中の言葉であるが、70年以上も前にすでにニ十一世紀型の情報社会が出現しており、情報ばかりが氾濫して知恵を見極められない状況だったのだろうか。この言葉は、周知の事実であるヒトラーのような独裁者が登場することへの警鐘だったのではないだろうか。

ニ十一世紀の現在、70年前には想像つかないほどに情報は氾濫しており、その中で生きる私たちはより一層知恵を求められているはずである。必要な情報かどうかの判断はまた言葉の力によるものである。小学生・中学生・高校生といった大人へと成長していく過程の中で、最大限の努力を払って身につけておくべきものの一つが「ことば」であり、「ことば」が基になる「考える力」である。これは幼少期からの習慣と、自分のものとして使える言葉の総量によって左右される。その上に「考えた経験」が付加されることによって、生きた知識となり、知恵を蓄えていくことにつながっていく筈である。これからの時代を生きていく子どもたちの大半は、ともすれば目先のことだけにとらわれる傾向が強い。だからこそ、何年も前に「子ども」を経験してきた私たち大人は、少しでも子どもたちの目線を上に向けられるようなものの考え方や、またその土台となる言葉を伝え学ばせていかなければならない、と考えている。松井のことを伝える天声人語は、そのことを気づかせてくれた。